障害者になって思った幾つかのこと

脳幹出血で倒れてから11年、障害者になって思った幾つかのことを忘れないうちに記録しておこうと思いブログを始めてみました。 一応社会復帰は果たせたので実際に社会に出て思った幾つかのこと、趣味のギターをしつこくも続けているのでそれにまつわる幾つかのこと、いろんな事を思いつくままに記録して行こうと思ってます。

カテゴリ: リハビリ

そして三人が残った
勘違いして、突き進んだ結果2016年には新しい曲が出来てレコーディングも済ませてしまった。
勘違いしてみるモノではあるな。勘違いしてなければ出来てなかったと思う。
あれから1年以上経って改めて聴き直すと…結構情けない、とっても恥ずかしいぞ…メンバーに聴かせるためのデモ音源の域を出ていない。
しかし当時の自分の状態を正直に記録したものであるから大切にしていこうと思う。
いつか、バンドで演奏してみたいモノだ。

2007年...そして仕事復帰へ
さて話を当時に戻す。 
相変わらずの生活ではあったが少しずつ甘いモノを食べるようになっていた。
非常に健康的な食生活をしてはいた。夜は配食サービスを利用していたから何の問題もなかったし朝昼はきちんと自炊していた。昼はたまに外食もしたけれど…
で、週末はヘルパーがやって来て週末分の食事を作り置きしておいてくれた。
それだけなら言う事無いのだが、すぐ近所にコンビニがあったためどうしても間食の量が増えていった。誘惑には弱いのだ。
当然、体重も徐々に増えていったわけだが、社会復帰以降の大幅なリバウンドと比べると可愛いモノではあった。

身体障害者手帳が交付されるといろいろな助成が受けられる。医療費の助成、税金の減免、各種料金の割引・減免、生活用品の貸与、などが主なところである。
ずいぶん利用させて貰っている。大変お世話になっている。と、同時に申し訳ないと思う。
普段はそんなこと考えもしないのだけれど、こうやってブログとか書いてると突然客観的になって自分のことを "なんだコイツ社会のお荷物じゃん" なんて思ってしまう時がたまーにある。まぁ次の瞬間に開き直ってしまうのだけれども。まあいいか使えるもの使ってしまおう...ってね。
話が
それてしまった...
いろいろと
柄にもない事を考えているうちに職場復帰の時期が迫ってきた。
2007年2月15日。これが最終的に決定した復帰の日である。
仕事に関してはやってみないとわからなかったがその他のことについては多少の不自由はあるもののかなりの事が出来るようになっていた。この頃になると一人暮らしに対する不安・何かあった時の恐怖、といったものはだいぶ解消されていたように思う。

しかし職場復帰に関してはかなり不安だった。しかし「2月15日来れないようならその時点でもうウチと君とは関係なくなるから。」とか総務の方に言われてしまった(フツー言うか?)ので、もはや行くとか行かないだとか言ってられない状況にまで追い込まれていた...
で、「不安を振り払うため」と言う大義名分をつけて結構遊んだ記憶がある。

そうこうするウチにバレンタインデーがやって来た。私が倒れた日である。という事は明日は仕事復帰だ。すごく大切な日である。
今後の人生を左右するかもしれない大切な日の前日、わたしはあろう事か隣の県にいた。
何をしていたかというと遊び狂っていた。何をして遊んでいたかというとここで書けようはずもないそう言う事なのだ........ 

2006年に話を戻そう。
自動車に乗れるようになったのは大変に大きな出来事ではあったが、イザ乗れるようになると当たり前のように歩かなくなり、当たり前のようにリバウンドしていった。
とは言ってもまだ退院して間もない時期だけに多少は気を付けていたのでそんなに激しいリバウンドをしている、と言う訳では無かった。
ジムに毎日老健には週2のペースで通っていた。そこで脚力を鍛える運動、体幹を鍛える運動、有酸素運動などをしていた。
通うのにクルマを使うようになった分歩く距離は確実に短くなっていたが。

それに対してクルマに乗る距離はかなりの勢いで伸びていった。
気が付けば隣の県にまで足を伸ばすようになっていた。
あれ?俺一生寝たきり宣言されなかったっけ?この件に関して面白い話を聞いた。
医師が「歩けるようになりますよ。」とか言ってしまって歩けるようにならなかった場合、時として患者とその家族から猛抗議を受けることがあり、酷いときには裁判沙汰にまで発展してしまう場合があるという。
だからこう言う場合、最悪の事態を想定して答える、と言うのだ。
なるほど、わたしも最悪の場合寝たきりになっていたわけだ…おー怖い!
そう考えるとリハビリ病棟の先生はうまいこと言ってたな。どのくらいの回復が見込めるか質問すると必ず「自分次第です。」と答えていた。
これに関してはわたしも
同じ意見だ。
自分で
勝手に思い込む、それが勘違いであってもいい。回復すると思い込むのだ。とにかく思い込む...信じる、と言い換えてもいい、おや?その方がかっこいいな...
頭の病気だ、
頭の中で考えてる事に左右されるに違い無い!
その証拠に
ダメだと思ったらそこまでだ。進歩が停止する。下手をすると後退する。
思い込んでる
限りそれ以上悪くなる事は無い。だから自分次第なのか?
とりあえず

信じて信じて信じまくれ!...........勘違い吠えてみた...かっこ悪...
 

 ブレーキを左足に担当させると決めてからは慣れるのは速かった。
 慣れるのが速い分楽な環境に慣れるのも速かった。
 あっという間に
歩かなくなった 。
 自分の
好きなタイミングで歩いては行けそうも無い遠くまで行く事ができるのである。歩かなくなって当然である。
 リハビリに通っていた
老健にも車で行くようになった。歩いて5分もかから無い職場へも車で通うようになった。気がつけば殆ど歩かなくなっていた。
 隣の県の歓楽街とかにも平気で行くようになった...休職中なのにである。

 で、仕事復帰はどうなったのかというと、結論から言うと
”一年間の休職期間の後”という事になった。一時は10月復帰という話もあったのだが、一年間の休職と言うのはすでに決まっていた事らしく
”自宅療養及びリハビリに期限いっぱい励んで、少しでもよくなった上で復帰しなさい。中途半端な状態で復帰して倒れられでもしたら逆に迷惑だし...”という事だった。
 喜んで良いのか悪いのか複雑な心境であったがお言葉に甘えさせていただく事にした。という訳で正式復帰は
2月15日に正式決定したのである。

 そうとなったらリハビリに気合いを入れるしか無い。老健でのリハビリの他に町営の
健康施設(早い話がジムのようなもの)での自主トレにも励んだ。車を手に入れて歩かなくなった分を補う作戦である。
 起床→朝食→掃除、洗濯→ジム→昼食→ジムまたは老健(水曜、土曜)→帰宅→夕食
 なんだか入院中のような規則正しい生活をしていた。いつから崩れだしたんだろう?

 
ギターのリハビリもする事はしていたが中々出口が見えなくて...色々と試行錯誤はしていたが。右手が麻痺してピックが持て無いんだけどどうしよう?なんて低次元のところをうろうろしていた。
 結局
一曲作ってレコーディングするまでには11年の年月を要するのだった。いや〜長かったぜ!

 9月3日に退院も決まり入院生活もラストスパートである。
 この頃になるとリハビリですることはだいたい決まっており、理学療法士とのリハビリではひたすら筋トレを、作業療法士とのリハビリでは床からの立ち上がりや・包丁の使い方・浴槽への入り方といった日常作業を練習し、言語聴覚士のリハビリは卒業していた。軽い構音障害はあるものの日常生活には必要十分であろうという先生の判断によるものだった。
 
 ここで構音障害とは何か疑問に思った方もおられるのでは無いかと思うので簡単に説明しておく。
 構音障害とは言語障害の一種である。声帯の筋肉に麻痺が残ったため声帯の動きが制限されて起こる
”ろれつがまわらない”状態である。
 
 早口言葉とかにでも挑まない限り日常生活で不自由することは無いのだが本人的に若干違和感を覚える時がある。側で聞いてる分には気にならないらしいのだけれど。
 
 実は今でも会議で発表する時や朝礼の司会など多少の緊張を強いられる場面ではろれつがまわらなくなったりする。これは付き合っていくしか無いのであろうが11年も経った今ではあまり気にならなくなった。慣れって恐ろしい。

 この頃には入浴も一人で、ただし浴槽に浸かるまで・身体を洗う時・浴槽から出て椅子に座り服を着るまでは介助を必要としていた。退院までにすべて一人で出来るようにならないと。

 家族のサポートが有る場合は多少の介助が必要な状態でも退院していかれることが多いのだけれども、わたしは一人暮らしであったため一人でそれなりの事ができるまで退院とはならなかった。
 入院時の予定表には推定される入院期間
2ヶ月と書いてあったが実際には5ヶ月もかかってしまった。

 さて、ダイエットである。間食をきっぱりとやめ、リハビリ時間以外はひたすら歩いた。他に方法もないしあったとしても知らなかったのでそれ以外出来なかったのだけれど。
 季節は真夏(8月だ)。水分補給には随分気を使ったけれども、
頭がふらふらしてくる事は何度かあった。ペットボトルを持ち歩いていたので大事にはならなかったけれど。
 水分補給ってのは
こまめに何度も行う事。喉が乾く前におこなうのが好ましい。喉が乾くって言うのは軽度の脱水症状なのでそうなる前に水を飲んだほうがいいらしい。ちょっとづつ何回も水分補給するのが大切である。なんて事を知ったのは割と最近の事だ。
 どちらかというと喉が乾いてから水分補給する、理想とは真逆の事をしていたように思う。

 そのせいか昼に体重を測って夕食前にもう一度測ると
2kg減少している何て事もあった。皆さんはこんな無茶は絶対しないでほしい。
 8月5日夕食前の体重
85.4kg...実はこの後の記録が残ってない。
 退院時の記憶はあるのでこれからはそれを元に書いていこう。

 本当にあとわずか...他の患者さんは退院して自宅に帰るのを心待ちにしている方がほとんどだったが、自分自身は本当に一人暮らし出来るのだろうか?といった
不安の方が大きかった。小心者なのだな実は。
 

  

 今日はリハビリの話だ。
 リハビリ病棟では食事の前に嚥下体操というのをやっていた。食物をスムーズに飲み込めるようになる、と言うヤツである。
 体操自体の内容はほとんど覚えてないのだが印象的な出来事が一つ。
 体操を真面目にやっている人はほとんどいなかった。看護師や介護職員、患者の付き添いの人たちは真面目にやっているのだが患者で真面目にこなしている人はいなかった。
 もちろん自分もその一人である。
 体操の最後には全員で「パタカ・パタカ」と連呼するのだがそれまで雑談していた方もこれだけは真面目にこなしていた。かなり大きな声で一生懸命に発音していてかなり印象的であった、と当時の日記には書かれていた。
 
 現在の職場では朝礼の時体操をするのだが、両手を挙げて後ろにのけぞる動きが右半身に麻痺が残り平衡感覚も狂っている自分にはどうしてもできない。
 そんな事にストレスを感じていた時なぜだか不意に嚥下体操の事を思い出してしまった。そしてあの時の考えは間違っていたのかも知れないと思うようになった。
 体操をやっていなかったのではなくて、体が動かせなかったため出来なかったのだ...大変に申し訳ない気持ちになった。こんな簡単な事なぜ解らなかったのだろう?

 その頃にはリハビリの甲斐あって5月中旬にはトイレに行く時介助を必要としなくなった。
 ただし介助は必要としないが介護職員による見守りは必要。相変わらずトイレの際にはナースコールを押さなければならなかった。
 病棟のトイレでは便座を上げる事が禁止されていた。
 なんでも便座が上がっているのに気がつかずそのまま腰を下ろして便器にはまってしまい立てなくなりナースコールをする患者が後を絶たなかったらしい。
 想像してみてほしい。便座を下ろしたままの状態で立って用を足すとどうなるか...便座はいつも汚れていたから介助や見守りの職員がその都度掃除をしてくれていた。
 申し訳ない気持ちが半分、汚くねーか?という気持ちが半分、状況的にしょうがないだろうなという気持ちがほんの少し...一刻も早く立って用を足せるようになりたいと願っていた。

 そんなある日立って用を足す許可がもらえるチャンスがやってきた。
 リハビリ病棟では月に一度教授による審査がありそれを通過しないと次のステップに進めない事になっているのだが「次の審査を受けてみませんか?」と理学療法士がおっしゃったのだ。
 日頃は怖いばかりの先生ではあったがこの時ばかりは華奢で可愛らしい女性に見えた...わたしはなんて調子がいいのだろう。

 無事審査は終わり立って用を足す許可をいただいた。まぁ、考えてみればそれだけなのだけれどここまだ結構時間がかかっただけに妙に嬉しくて得意気だったのを覚えている。

 2〜3日後の事である。
 理学療法士の監督のもと立ち座りの練習に励んでいた。これが結構きつく確実に足腰が鍛えられていってる実感がある。
 脳出血で平衡感覚に自信のないわたしはふらついても踏ん張れる脚力をつけることが最重要課題とされていた。
 それにしても100回3セットって鬼じゃね?(ほとんどスクワットだぜ)。とか思いながら黙々とこなしていた。もしかしたら不甲斐ないわたしが人生で一番真面目だったのはこの時期だったかもしれない。
 いつもとなんら変わりなく運動をこなしていたら不意にバランスを崩して椅子の上に尻餅をつくような格好で座り込んでしまった。
 「立ってトイレをするのはまだ止めときましょうね〜。」理学療法士の情け容赦ない声...
 油断していた。調子に乗っていた。三歩進んで二歩下がる〜。また元通りかよ!いろんなことを思ったが全ては後の祭りだ...
 相手は若い、可愛い、怖い、の三拍子が揃ったあの彼女だったのである。 
  

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