障害者になって思った幾つかのこと

脳幹出血で倒れてから11年、障害者になって思った幾つかのことを忘れないうちに記録しておこうと思いブログを始めてみました。 一応社会復帰は果たせたので実際に社会に出て思った幾つかのこと、趣味のギターをしつこくも続けているのでそれにまつわる幾つかのこと、いろんな事を思いつくままに記録して行こうと思ってます。

カテゴリ: 発病〜社会復帰

 試験外泊も無事終わり退院の日も決まった...後は入院中いかに充実したリハビリを行うか、である。
 理学療法は機械を使った脚力のトレーニングに加えて体幹を鍛えるための腹筋などにも力を入れていた。
 ただしこれらは機械は使わず先生とのマンツーマントレーニングが主となった。なぜマンツーマンかというと「機械を使うと一箇所を集中して鍛えることになるので体幹を鍛える目的にはそぐわない。先生の指示でひねりを加えたり背筋を織り交ぜながら全体をバランス良く鍛えることが理想的。」だからである。 
 理学療法はマシンによる
脚力トレーニング、マンツーマンの体幹トレーニングを行い自主トレではひたすら歩いた。
 
作業療法は日常作業に加えてパソコンでの
文字入力の訓練や仕事復帰後のことを考え本のページや伝票をめくるトレーニングを淡々とこなした。
 日常作業の一環として実際に
カレーライスを作ったりもした...味はどうだったかなんて事は覚えてないけれど。覚えてないという事は可もなく不可もない無難な仕上がりだったのだろう。もちろん作業療法士の監督のもとで調理した。

 以前支所長が「いきなり仕事なんかできないのはわかってるから少しづつ慣れていけばいい。ただ
8時間勤務できるだけの体力だけはつけておけ。」と仰ってたのでとにかく朝食を済ませてから夕食までの時間は絶対ベッドで横にならないようにした。で、自主トレではとにかく歩いた。細かい作業は職場復帰後仕事をしながら慣れていこうと思っていた。

 トイレはすでに
見守りなしで立ってする事が許されていた。あとは入浴であるがこれはまだ一人でという訳にはいかなかった。脱衣所で衣服を脱いで体を洗って浴槽に入るまでの間と、浴槽から出て体を拭いて着衣するまでの間は見守りを必要とした。

 ここで入院期間に関して面白い話を聞いた。
 ここの病院では
病気によって最長で何ヶ月入院できるかというのが決まっておりそれを過ぎてもリハビリが必要だと医師が判断した場合は他の病院に転院するのだという。
 私の場合(脳幹出血)最長期間は
6ヶ月であるらしく、予定通り9月3日に退院できればほぼ5ヶ月の入院期間という事になる。
 だからかどうか「万一入浴の許可が下りなくてもあと一ヶ月あるからあせる事はないよ、のんびりやろうよ。」なんて声をかけてくれる看護師さんもいた。
 
わたしはそれも良いかな?なんて思っていた。
 多くの患者さんは1日も早く家に帰りたいと願うものらしいがわたしの場合は違った。うちに帰れば一人なのだ。わたしには家族というものがないのだ。
 
 入院していればなんかあれば
ナースコールを押せば看護師さんが来てくれる。一定時間ごとに見回りにも来てくれる。その安心感は絶大である。対して独りである事の不安感の大きい事...何かあってもどうしようもない。道に倒れたっきり全身がピクリともしなくなってしかも意識だけははっきりしていたときの恐怖。孤独死という言葉が日本一似合う男...それはわたし
 人一倍ビビりのわたしはそんな事を考えると帰りたくない、とか思うようになった。5ヶ月近くも入院しているとスタッフ達とも打ち解けてくる。事実入院生活は
めちゃくちゃ楽しかった。ここのリハビリが厳しいと聞きそんなキツイところには来たくない!とか思ってたのが嘘のようである。一生寝たきり宣言されたのも嘘のように元気になった。
 マジで当時の事を思い出して
めっちゃブルーになって来た...いかん泣きそうだ...あれから11年以上たってるのにこのリアルな思い出し方はなんだ?11年もたってるから自分の中で思い切り美化されてるってのはあるだろうけど。

 そんな感傷に浸ってる暇などないくらいときの流れは早い...あっという間にその日はやってきた。

 果たして冷静にスタッフ達に
別れを告げる事ができたのか?本当に思い残す事はなかったのか?何より体重は落ちたのか?
 

 ダイエットも良いが肝心のギターはどうなったの?
 もちろん続けてはいた。が、あまりに先が見えない...結果、これ以上後退しないようにとりあえずさわってはいるぞ、くらいにしかさわってなかった。なにしろ
弦交換やチューニング すらままならないのだ。
 脳幹出血以前、自主制作で創ったCDを主治医に聴いていただいた。
 「こんなに本格的だとは思わなかった。」とお褒めの言葉をいただいた。
 「もう一度できるようになりますか?」と尋ねてみた...
 「
自分次第です。」とのお答え...
    まぁやるしか無かろう...これに関しては諦めるつもりなどこれっぽっちも無かったのだ。

 いろんな事を試した。ピックが持てないなら
サムピック だろうと思えば友人にいろんなサムピックを購入してもらっては病院宛に送ってもらったりもした。
 どれもこれもイマイチだった。
 作業療法士と相談してピックを持つ形で
右手を固定する装具を作って貰ったりもした。
 ここで、固定してはいけない事に気がついた。ピックの深さ、当たる角度、等を微調整しながら弾くことを考えるとある程度
指先は自由 に動かなくては...
 麻痺のことを考えると
完全固定したいし、表現することを考えると指先は自由にしておいてあげたい。
 
    実は未だにはっきりした答えは出ていない...いつか見つかれば良いなとも思う。
   しかしよく考えたらたとえ麻痺が無かったとしても答えなんてのは見つからないのでは?と思う時がある。
    ひとつ答えを見つけたころには次の疑問が…この歳になると耳が肥えていくスピードに実力の成長スピードが追いつかなくなっていく。結果やればやるほど実力の無さを痛感する。だからと言って練習をサボるとエラいことになる。若い頃と比べると衰えるスピードは猛烈に速い。

    未だにこうなのだ、入院してた当時はほぼ何も出来無いに等しかった。ピックを持てるようになるのが最重要課題だなんて…でも不思議と諦めようとは思わなかった。何なんだろう?よほどほかに好きなことが無いか、取り柄がないのだろう。
    自分の身体条件に合わせた新しいスタイルを確立する。なんてことを思い付く余裕は当時の自分には無かった。元の状態 に戻すことばかり考えていた。
    結局ギターに関しては入院中には何も起こらなかった。発想の転換をしてみたらどうだろう?なんて考えるくらい柔軟になれたのはもう少し時間が経過してからであった。

 8月の何日だったか記憶にないが試験外泊というものがあった。
 自分の家に一泊ほど外泊しその様子を家族にチェックしてもらって本当に退院しても大丈夫かどうかの判断材料にする。というもので試験外泊で問題がなければ退院の日程が最終的に決定するのである。
 私には家族と呼べるようなモノはなかった。だから入院中ずっとお世話になっていた
叔父さんの家に外泊する事になった。実に歓迎してくれてひどく恐縮したのを覚えている。逆に言うとそれ以外の事はあまり覚えてない(すみません叔父さん)。
 そんな試験外泊ではあったが一つだけよく覚えていた事がある。
 何かと言うと外泊を終えて病院に帰る途中、病院近くのスポーツショップで
減量用のサウナスーツを発注したのである。
 スポーツショップを見つけるまでにだいぶ苦労した。当時叔父さんの車にはカーナビなんてモノは搭載してなかったから 車を止めて道行く人に聞きながらなんとかたどり着いた。
 そしたらまさかの在庫切れ!注文しようかと思ったが取りに来る術がない。店主に事情を説明すると「あの病院だったらよく知ってるから届けてやるよ。病棟と部屋の番号を教えてくれよ。」なんて言ってくれたモノだからその場でお願いして支払いをすませてきた。
 2〜3日後に届いたのだがこれが理学療法士たちにはかなり不評であった。サウナスーツとかを着用しての
無理矢理な減量は健康面を考えるとお勧めできない。といった意見がほとんどで、「汗が出ないのを絞り出すのならともかくほっといても汗が出るこの季節(8月)にサウナスーツって www。」なんて人も居た。
 結局サウナスーツは汗が出ない時期の減量用に取っておいて入院中は使わない事にした。この時の私は
一体どこに行こうとしていたんだろう?
 皆さんの予想通りサウナスーツは
一回も使用していない...スポーツショップのおっさん、ごめんなさい。
 結局試験外泊は何の問題もなく終わり、
9月3日退院というのが正式に決定した。 

 9月3日に退院も決まり入院生活もラストスパートである。
 この頃になるとリハビリですることはだいたい決まっており、理学療法士とのリハビリではひたすら筋トレを、作業療法士とのリハビリでは床からの立ち上がりや・包丁の使い方・浴槽への入り方といった日常作業を練習し、言語聴覚士のリハビリは卒業していた。軽い構音障害はあるものの日常生活には必要十分であろうという先生の判断によるものだった。
 
 ここで構音障害とは何か疑問に思った方もおられるのでは無いかと思うので簡単に説明しておく。
 構音障害とは言語障害の一種である。声帯の筋肉に麻痺が残ったため声帯の動きが制限されて起こる
”ろれつがまわらない”状態である。
 
 早口言葉とかにでも挑まない限り日常生活で不自由することは無いのだが本人的に若干違和感を覚える時がある。側で聞いてる分には気にならないらしいのだけれど。
 
 実は今でも会議で発表する時や朝礼の司会など多少の緊張を強いられる場面ではろれつがまわらなくなったりする。これは付き合っていくしか無いのであろうが11年も経った今ではあまり気にならなくなった。慣れって恐ろしい。

 この頃には入浴も一人で、ただし浴槽に浸かるまで・身体を洗う時・浴槽から出て椅子に座り服を着るまでは介助を必要としていた。退院までにすべて一人で出来るようにならないと。

 家族のサポートが有る場合は多少の介助が必要な状態でも退院していかれることが多いのだけれども、わたしは一人暮らしであったため一人でそれなりの事ができるまで退院とはならなかった。
 入院時の予定表には推定される入院期間
2ヶ月と書いてあったが実際には5ヶ月もかかってしまった。

 さて、ダイエットである。間食をきっぱりとやめ、リハビリ時間以外はひたすら歩いた。他に方法もないしあったとしても知らなかったのでそれ以外出来なかったのだけれど。
 季節は真夏(8月だ)。水分補給には随分気を使ったけれども、
頭がふらふらしてくる事は何度かあった。ペットボトルを持ち歩いていたので大事にはならなかったけれど。
 水分補給ってのは
こまめに何度も行う事。喉が乾く前におこなうのが好ましい。喉が乾くって言うのは軽度の脱水症状なのでそうなる前に水を飲んだほうがいいらしい。ちょっとづつ何回も水分補給するのが大切である。なんて事を知ったのは割と最近の事だ。
 どちらかというと喉が乾いてから水分補給する、理想とは真逆の事をしていたように思う。

 そのせいか昼に体重を測って夕食前にもう一度測ると
2kg減少している何て事もあった。皆さんはこんな無茶は絶対しないでほしい。
 8月5日夕食前の体重
85.4kg...実はこの後の記録が残ってない。
 退院時の記憶はあるのでこれからはそれを元に書いていこう。

 本当にあとわずか...他の患者さんは退院して自宅に帰るのを心待ちにしている方がほとんどだったが、自分自身は本当に一人暮らし出来るのだろうか?といった
不安の方が大きかった。小心者なのだな実は。
 

  

 先日支所長がいらしたのに続いて総務部長と総務課長が今後の相談にいらっしゃった。 
 今回は傷病手当の事も視野に入れ、復帰時期について考えることになった。
 前回と大きく違ったのは復帰時期そのものであった。
 前回は、有給も使い切ったし保険も切れた、傷病手当は計算に無い→全くの無収入→
一日も早い復帰を、という流れであった。
 それに対して今回は、すでに一年間の休職手続きは取ってある→傷病手当があるので全くの無収入では無い→復帰を急いで体に負担がかかって再発でもすれば→
一年間しっかりリハビリをして少しでもよくなってから復帰を、といった具合である。

 まるっきり違う、笑っちゃうぐらい違う、こんなに違っていいのか?ってぐらい違うぞ。
 わたしの心の中では結論は出ていた。もちろん
後者である。わたしはなまけものなのだ。根性も無い。合法的に長期間休めるのなら迷わずそちらを選ぶ。わたしはそういう人間なのだ。

 しかし10月1日復帰という話を身内の者にはすでに発表していた。それを訂正してまわるのも気がひける。予想より遥かに早い復帰に皆喜んでくれていたから。

 まぁ、今度は正式に決定するまで黙っておこう。
 実は10月復帰の話があった時は自分でも「こんなに早く復帰できるぞ!
どんなもんじゃい!」という気持ちがあったので嬉々として皆に言って回ったのだが、今回はもう少し慎重に発表しようと思った。

 とはいえ9月3日退院というのは決まった。試験外泊をして問題がなければ正式決定である。
 わたしにはそれまでに成し遂げなければなら無いことがある。
 そう、
ダイエットである...
 目標
80kg!現在87.4kg...えっ!!

  

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